亀小時代 あの頃の私たち

亀阜小学校で過ごしたあの頃この頃。

みなさんからいただいた思い出エピソード、懐かしい写真などを順次掲載していきます。


 私が小学生の時に、亀阜小が創立百周年を迎えました。

 入学当時は木造校舎で、今の南校舎と体育館の間にも、2階建ての木造校舎がありました。
 創立百周年の頃から校舎も次々と鉄筋化され、まずは南校舎、そして北校舎と新築されていきました。
卒業の頃に北校舎が大部分完成し、教室として使った記憶があります。
 まだまだ当時の建物として、体育館もそのままですし、グランドから校舎を見た景色は、50年たった今でもほとんど変わらず、懐かしい思いがします。
 今のかめっこ教室のあたりに当時は用務員室があり、用務員室前の水道の蛇口をひねると、温かいお茶が出ました。それを備え付けのアルミのコップで飲んだ記憶が残っています。
 今では考えられない、昭和ならではの光景ですね。

昭和50年3月卒業 フランク翔太)

 今から10年前の平成24年度は140周年の年でした。
 当時PTA会長として校長先生に周年事業は何をしようかと相談しました。当時の校旗が昭和30年代とボロボロだったので、校旗を新しく購入して欲しいと依頼でした。「バザーで儲けて校旗贈呈!」というキャッチフレーズの事業計画書を自ら作成し大いに盛り上がった結果、校旗を贈呈する事が出来ました。その校旗贈呈式では、急性喉頭炎で声が枯れるというハプニングがありましたが約50年振りの贈呈式に参加し校旗を贈呈し、だみ声でご挨拶させていただいた事は今でも良い思い出です。詳しくは当時のブログをご覧下さい。
https://blog.goo.ne.jp/uzusionaruto/e/3d1da533d05ef20237d675b8a59ee9e7

(平成24年度PTA会長 和田 成登)

 語りつくせないことばかりですが、学校内に給食場があったのは本当によかったなと思います。すぐに温かいごはんが食べられて、苦手なものは友達とシェアしていたような記憶があります。

 また牛乳瓶の蓋(当時は紙)をコレクションしていたお友達がいました。一時期水不足でビンではなく紙パックになったので、そのお友達がすごく残念そうな顔をしていたことが今でもよく思い出せます。
 とにかく本当に楽しい6年間の小学校生活でした。150周年おめでとうございます。

(平成18年卒業 O.F

 私は亀阜校区でもほぼ西の端で学校まで毎日2キロほど歩いて登校してました。一年生の時はどれほど遠く感じたかでも大きくなるに連れて調子に乗って自転車で行ったり、帰りに給食のうどんで八幡池の亀を釣ったり、今では考えられない事ばかりしていた思い出があります。
 下校での一番の思い出は、春の良き日に公園で花見をしている大人の団体に呼ばれお寿司をご馳走になり上機嫌で帰ったのですが、夜お腹が痛くなり食中毒に痛くて泣いてしまいましたが、そんな中あの大人達も今頃痛いのならと思ってひたすら耐えた思い出が懐かしいです!wonderful亀阜小学校

(昭和50年ごろ卒業 オッカム)

 当時担任をしてくださった先生は、内山真弓先生でした。エネルギッシュで、「何事にも全力で!」が合言葉の情熱的な先生でした。私は、56年生の時に担任をしていただいたのですが、内山先生にはある一つの夢がありました。それは、クラスの全員が漢字テストで100点を取るというものです。先生いわく、今までその夢は1度も達成されたことがなく、いつか全員100点が取れる日を夢見ていらっしゃいました。私たちもなんとかその夢を実現させたいと努力はしたのですが、「全員」と言うのはなかなか難しく、どんどん年月ばかりが過ぎていきました。6年生になり刻一刻と卒業が近づく中、私たちは一度も全員満点を取ることができず、焦りを感じていました。
 そんな中迎えた最後の漢字テストは卒業式の前日という日でした。私たち64組の面々は、なんとか全員満点を取りたいと、休み時間にお互いに問題を出し合うなどしてその日のために勉強を重ねました。
そして迎えた最後の漢字テストの日、クラスの全員が見守る中、漢字テストの採点を先生が11枚していきます。私たちはドキドキしながらその行方を見守りました。「○○さん、満点!〇〇さん満点!」と、どんどん満点のテストが積み上げられていき、ついに最後の1枚、私たちは固唾を飲んで見守りました。「…○○さん、満点!」と先生の声が教室に響き渡った時、私たちは大きな歓声をあげて喜びました。普段はおちゃらけた子も、真面目な子も、おとなしい子も、全員が嬉しそうにお互いを称えていました。しかし、誰よりも喜んでいたのは先生でした。その日の連絡帳に「ついに私の夢が叶いました!」と先生がコメントしてくださっていたのを今でも覚えています。

 この思い出は私にとって忘れられない大切な思い出であり、また、このように生徒と喜びを分かち合うことができる、教師という職業のやりがいや尊さを感じるきっかけにもなりました。この経験が私にとって大きな契機となり、私も教師を目指すことを決めました。ありがたいことに、今では私自身も教師という職業に就いています。まだまだ未熟ではありますが、いつか内山先生のような先生になりたいと思い日々働いています。
 先生、本当に、ありがとうございました。

(平成17年3月卒業 上崎 理沙)

昭和40年頃の遊び

 

 小学校から下校するとカバンを放り投げ、お金もないのに近くの駄菓子屋へ、自然に近所の子ども達が集まって来てその日の遊びが始まり、日が暮れるまで続きます。

 当時、普段の遊び()に飽きた男の子は、ボーイスカウトに入るのが一つのブームで、亀小校区には日本ボーイスカウト香川県連盟高松第7団があり、亀小の4年〜6年生50人ぐらいの団員がいて、6〜7 つの班に分かれ、それぞれ鳥の名前(イーグル、ふくろう、ハヤブサなど)を付けて活動していました。現代より伸び伸びと育つ環境の中、自分で考え行動し、年上の子に教えられ、年下の子に継承して行くサイクルが自然に出来上がっていたと思います。毎週日曜日の朝、石清尾八幡宮に集合して、峰山や稲荷山、郷東川など自然に恵まれた中で、楽しく訓練や奉仕活動に励んでいました。(昭和41年卒業  隆) 

(当時の遊び

三角野球(ゴムボール)、8会戦、島会戦、泥巡、ビー玉、パッチン、くぎたて、けんぱー、あやとび、馬飛び、コマ回し、凧あげ、昆虫やザリガニ取り、紙鉄砲や弓作りなど

  (当時の遊び場

各地域にある駄菓子屋を中心として、近くの神社、お寺、舗装していない道路や空き地、山や川など全てが遊び場

 私が入学した時は140周年だったでしょうか、時の流れは早いですね。
 私は小学校卒業後、岡山県の中学校へ進学しました。昼休みになると時々給食に出てたしっぽくうどんを思い出します。

 さて、小学校1、2年生の頃でしょうか 南棟の廊下は木製でところどころキシキシミシミシとなる味のある廊下ですが、図工室の付近に小さな穴が空いていたのを覚えています。そこに草が生えてました。きっと好奇心旺盛な私は成長するのを友達と見ていたことでしょう。そんな記憶がだんだん蘇ってきます

(平成30年3月卒業 黒田 開

 昭和45年、秋の運動会での苦い思い出です。

 校長先生の閉会のスピーチが始まろうとしていました。全員集合の合図ともに私も遅れて集合するも、自分の手には食べかけのソフトクリームが、、、担任の先生は、もったいないからと言って後方で食べなさいと言ってくれました。目線を校長先生には向けられず、澄み切った青空を眺めながら、ソフトクリームを罪悪感に押しつぶされそうになりながら食べた、苦い思い出です。昭和47年卒業 あきちゃん

 亀阜小学校が150年を迎えられましたことをお慶び申し上げます。

 1969年、私は新任教諭として伝統ある亀阜小学校に赴任しました。その年、放送教育の全国大会が開催され、また全教員で百周年の記念行事計画・実施に奮闘しました。毎日が楽しみで、子ども一人一人の良さを発見し伸ばすため、全力で向かい合いました。休み時間は泥じゅん、相撲やボール運動。クラスマッチ週間は早朝練習。栗林公園や八幡様にもよく写生に出かけました。雪が降った時は授業を中断して雪合戦。草野心平の詩を暗唱し雪の詩作り。教室で青虫を育て蛹の羽化の瞬間を観察・・・思い出は尽きません。

 亀阜小学校で教員生活をスタートした私は幸せです。子どもたちに、諸先生、保護者や地域の方々に心から感謝しています。ますますのご 発展を祈念申し上げます。

(昭和44年から赴任 元教員 湯井 克子

 入学は昭和31年。ベビーブーム世代で校舎も増築中でしたが間に合わず、プレハブで勉強した経験もあります。最初の頃、運動場の南端に民家が残っていたのを記憶しています。
 卒業は昭和37年(1962)。新築なった体育館での卒業式第一期生です。建築中に絵の好きな生徒何人かに選ばれて館内に飾る切り絵(未来都市)を作成したのも懐かしい思い出です。
 幕末時代にこの亀阜の地に住んでいた偉人「松平左近」の顕彰石碑が校庭に残っていますが、私は今、小説を書いており、この度、その左近さんを主人公にした『海鳴りと砂塵』を7月に文芸社より出版しました。是非とも郷土の皆さんに読んでいただきたいと思っております。
(昭和37年卒業  讃 紫雲)

児童会のみんなと
児童会のみんなと

親子三代で南校舎

 

 30数年前に亀阜小学校を卒業し、就職を機に高松に戻ってきてからもう少しで20年。どうしても自分の子供たちは亀小で育てたいという思いから、引越しをしてきて早5年。子供たちもすくすく育ち、ひょんなことから地域やPTAに深く関わることになりました。毎日楽しく母校の亀阜小学校に入り浸る今日この頃です。

 長男の入学式の後、南校舎の教室に入った時のあの懐かしさは忘れません。木の床の独特の匂いのある教室、廊下。すりガラスの内窓とがたつく木製扉と謎の錠前。荷物を吊るフックは自分たちの時と変わらないのでは?と。昭和55年PTA寄贈と書かれた黒板消しクリーナーはもちろん現役でした。何もかもが、私が低学年を過ごした南校舎の思い出と変わっていませんでした。

 父親も私も子供たちも親子三代で南校舎。まだまだ長生きしてほしいものです。

(平成2年度卒業 天野雄一朗)

 さて、思い出はといえば沢山あるのですが、3年生の時に担任の先生が産休などで毎学期ごとに替わるという珍事があり、そんな中、優しく楽しく導いてくれた2学期の担任の岡みちえ先生(漢字忘れました)は、今でもすごく感謝しています。

 3年生となり初めて運動会のリレー選手を決めるために、クラスで50メートル走を計ると一番早いのが岡先生。ピアノと歌がとても上手だったのも岡先生。授業も楽しく本当にみんなの人気者の大好きな先生でした。でも、2学期のみの臨時採用だったこともあり、12月にはお別れと知り、クラスみんなで泣きながら校長室に直談判をしに行った思い出も、、、

 それから10年が経ち成人式の時?に高松に帰ってきていたら呼び鈴が鳴り、出てみるとあの岡先生が子供を連れてお祝いに来てくれていました。あまりに嬉しすぎて泣きそうになりました。

 

 どうやら私がよくランドセルを教室に置いて帰っていて、通勤の駅が近かったことから時々家まで届けに来てくれていたので、「そりゃ覚えてるわ!」とのこと。手間のかかった生徒ほど覚えてくれているんだなぁ、と。本当にありがとうございました!! (平成2年度卒業 天野雄一朗)

1997年 卒業式
1997年 卒業式

 私は、小学生時代は競泳選手で、練習・試合の毎日で、学校で過ごした日々の記憶があまりありません。
 ただ、その中でも強く記憶に残っているのが小学5年生のときに担任だった堀先生(通称ホリセン)と過ごした1年間はとても楽しく、たくさんの成功体験を積み上げられた濃い1年間でした。毎日たくさん練習をしても、なかなか結果が出ない時期に堀先生だけは私の日々の頑張りをみてくれていたり、可能性を信じ続けてくれました。「こんだけ練習してるんやから大丈夫や」という言葉が私の自信へとつながりました。
 小学校卒業後は、愛知県へ引っ越してしまったため堀先生がお元気なのかは分かりませんが、いまでも本当に感謝しています。

  平成9年度卒業 大磯冴奈

  亀阜小学校の思い出は沢山あります。約60年前の話(昭和25年生まれ)で、19574月から19633月まで在籍しておりました。1クラス62~63名で、6年生の時には8組あったと記憶しております。

2年生の時、雪が積もったので香川大学まで出かけ、授業として雪合戦をやりました。

また、3年生の時には同じクラスの男子が亡くなり、皆でお葬式に参列しました。その連絡は、電話の無い時代でしたので、私たちが次々に走って知らせに行きました。給食の時には41組で机を引っ付けて、白い布のテーブル掛けをし、家から持参した置物を中央に飾って、食べておりました。

4年生の時、給食費に1円札を持って行ったら、皆、お釣りを欲しがって大騒ぎでした。

6年生になると、修学旅行(高知)、臨海学校(海岸寺)、リード合奏、放送部など行動範囲も広がりました。

特にリード合奏はコンクールで四国一になり、記念にレコードを作りました。A面は優勝曲の「剣の舞」、B面は「赤とんぼ」でした。パートはアコーディオンで、5年生の時はオルガンでした。指揮は私のクラスの担任の田村和子先生でした。放課後、コンクールが近づくと、毎日夜8時頃まで残って体育館で練習をしました。夕方頃に菓子パンを1個ずつもらって食べた記憶があります。家族が迎えに来てくれました。

5年生、6年生と放送部でした。お昼の時間に東北地方の民話を朗読したのですが、東北弁につまずき、笑い出してしまい、教室に帰って先生に怒られました。その時の給食は職員室で校長先生と同じテーブルで食べた思い出があります。

給食と言えば当番制で、母親たちが作りに来ていました。母も後で頂けるし、他のお母さん方とおしゃべりもできるので、とても楽しみにしていました。

夏の体育の時間には、プールがないので大的場に海水浴に行っていました…等まだまだありますが、切りがないのでこの辺で止めておきます。(昭和38年3月卒  瀬良和子(旧姓 古川))

 創立120周年の時在籍しておりました。

 私は四年生で転校したため、亀阜小学校を卒業しておりませんが、縁あって息子が創立150周年を迎える亀阜小学校に通っています。

 亀阜小学校大好き!198312月生まれ たけ

 

 

 

 

                                                                              平成3年度3月、修了写真

【思い出写真】

1984年、卒業式

 

(と思われます)

同じく1984

峰山公園で、6年4組

(卒業写真を撮るために峰山公園に行ったと思われます)

真ん中におられるのが担任の岡田妙子先生(後に高松市初の女性校長になられました)

 

左端は当時の校長先生。

 

 (1984年卒業 6年4組

 既に同級生の一人が思い出話を寄せているようですが、私も140周年に入学しました。今は高校生です。
 高校での友人が「二宮金次郎像とか実際にあるん?」と言っていたのですが、何気に亀阜小学校はありますよね。在校生すら気付かないところ(先生方の駐車場の辺り?)に佇んでいるのを窓から発見した時は、私だけが知っている優越感に浸りました。
 今は引っ越したこともあり、殆ど小学校に近づくこともなくなりました。しかし、たまに横の道を通ると児童作品が飾られていたり、何かしらの植物が育てられていたり、卒業してたった5年なのでそんなものですが、変わっていないなと安心します。
 多感な時期だったこともあり、あまり思い出したくないこともあるにはあるのですが、6年間大変お世話になりました。(平成30年3月卒業 匿名希望)

 毎朝正門の前とか掃除してました!!
 スクールランチ委員会だったので給食のおばちゃんと給食場にいつもいたおじちゃんと仲良かった!!
 こだま班?みたいな、学年超えてグループ作って色んなことするのが楽しかった!私のことを好いてくれる可愛い年下ちゃんもできた!!(平成31年3月卒業 
卒業生👧🏻)

 毎朝、朝の会で歌を歌っていたのを覚えています。月ごとに曲を変えて、合唱曲とか歌うやつ。今思い返せば懐かしい歌がいっぱいあります。「世界がひとつになるまで」と、「大切なもの」が特にお気に入りです。
 亀っ子教室ではずっと漫画ばっかり読んでましたね。あの頃読んだ「金色のガッシュベル!!」は当時の私を感動させてくれました。
 行事の思い出で言えば、なんと言っても修学旅行でしょう。クラスの友達と巡る京都の町並みは、それはもう、ものすごく楽しかったです。早朝に鐘の音が聞こえてきて、同じ部屋にいたみんなで固まって震えていたときに、見回りにやってきた当時の担任のK.Y.先生が、「あれはお寺の鐘の音や」と言って、お寺まで連れて行ってくれたのを覚えています。教育熱心な方で、俺に対してもたいへん手を焼いてくださったと思います。それはもう大変だったと思います。
 他にも、朝の全校朝会のハッピー集会委員会の小ボケを楽しんだり、今はまだできないのでしょうが、机を合わせて給食を食べたり、運動会でもダンスの振り付けなど一生懸命に覚えたり、ワクワクハッピー昼休みも、友達とともに、いっぱいはしゃいでいたのを覚えています。
 過去に戻れるリセットボタンがあるなら、俺はきっと小学校時代に戻ります。俺は亀阜小学校が大好きです。またいつか、校舎にお邪魔したいなあと強く思います。(平成31年3月卒業 
しんもん(来世も亀っ子志望))

 美術の時間、ひとりの男子が「絵を描かない」と言い始めました。困ったミノ先生が、「それではモデルになってもらおう」と言い始めました。
 その男子は椅子の上でポージング。囲うようにして座らされた数名がスケッチしました。
 ミノ先生は、美術の時間を成り立たせるために、皆に役割を与えた機転の効いた行動をされたのです。
 先生の発想に従う児童たちもとても素直でほっこりするエピソードです。(平成13年3月卒業 
M.T

 

 昔は道路のアスファルトも今ほどよくなく、亀岡公園から学校の東側の道にでた辺に、冬になるとよく水たまりに氷が張っていた。
 登校時にスケーターのまねをして氷の上を滑る男子。思ったより氷が薄く、割れて靴がびしょ濡れになる男子。
 男子ってあほやなぁという点は昔も今も変わらないのかもしれない。(
昭和60年代卒業 6年4組)

 私は父の転勤で兵庫県西宮市から小学3年生で転入し、昭和38年に卒業と同時にまた西宮市に戻りました。わずか4年間でしたが友達もたくさんでき、とても楽しかったことを思い、亀阜小のホームページを拝見しました。

 同級生の作文を読んでビックリ!そして担任だった田村先生のお名前にもふれられ感激しました。

 当時私は勉強嫌いで、授業中いつも机の上でなにやらゴソゴソしていたり、居眠りをしていたりで、先生の怒りにふれ、廊下に立たされたこともありました。それでも卒業式の日に、先生が笑顔で握手してくれて、照れくさいながらも、とっても嬉しかったことを思い出します。

 勉強は苦手でしたが、音楽と絵は大好きで、写生の時間におはちまんさんの境内の桜の木を描いた私の絵が、卒業までずっと教室の教壇の上に飾られていたと記憶しているのですが、もう目に触れることもないでしょう。

 でももう一度タイムスリップして、あの頃の教室で、先生と友達に囲まれて楽しく勉強してみたいものだと思っています。(昭和38年3月卒業 田中耕児)

 強く心に残っているのは卒業式、担任の佐藤淳子先生が来てくださったことです。5・小6とクラスを担当してくださった佐藤先生ですがご病気で教卓を離れざるを得なくなりました。それでも卒業式には病を押して車椅子で駆けつけてくださり、僕たち6−3の卒業を見届けてくださいました。

 その一年後、先生は亡くなられました。涙もろくて「さとうきび畑の唄」のドラマで号泣していた佐藤先生。

 この150周年の会場にもきっと来てくださっていたと思います。卒業してから18年、僕たちはこんなに大きくなりました。これからも見ていてください。(2005年3月卒業 モッチー)


100周年記念誌(昭和47年刊行)より