中村美代子さん(亀阜小学校 昭和343月卒業)からお話を伺いました。

(聞き手、文責 実行委員会 川原、鈴木)

 

 

亀阜小学校150年の歴史の中には、「昭和20年(1945年)74日の早朝、B29の空襲により校舎が全焼」という、戦争による痛ましい出来事があります。

 

 

昭和2074日、高松市の市街地は約8割は焦土と化し、多くの尊い命が奪われました。そして亀阜地区も例外ではありませんでした。

この日、中村さんの11歳上のお兄さんで、亀阜国民学校3年生(当時9歳)だった 筧 周三(かけい しゅうぞう)さんは、焼夷弾(しょういだん)に焼かれました。

 

周三さんは奇跡的に一命をとりとめましたが、大やけどを負い、両手の指がくっついてしまうなど体が不自由になりました。その後の学校生活や就職などでは苦労の連続でした。しかし、周三さんは仕事にまじめに取り組み、動かない指ながら箸や鉛筆を上手に使い、周りの人から「器用な」と評され、「怪我をひがんでない」と感心されたそうです。

中村さんは、「40歳を過ぎた頃から明るく前向きに変わってきた。自分なりに戦争の理不尽さや自身のつらさを乗り越えたんじゃないかな」とお兄さんのことを思い返していました。

周三さんは数年前に亡くなられましたが、中村さんから見せていただいたスナップ写真には、優しい笑顔で写っている晩年の周三さんの姿がありました。

 

中村さんによれば、周三さんの不自由な体を見て、周りの人から「本当に戦争でなったのか疑わしい」と心無い言葉を投げられたこともあったとのことです。

今は戦争を知らない世代が増えているし、「地獄のような戦争のことを、お兄さんのつらかった境遇を、このまま忘れられてしまうのか」とやるせない気持ちになられたそうです。

 

「戦争にいいも悪いもないわ。不幸になる人ができるだけやのに。戦争は大嫌い。」と中村さんは言われます。

 

今年は亀阜小学校が創立150周年を迎えるおめでたい記念の年ですが、その77年前の亀阜小学校3年生の男の子の身に降りかかった不幸な出来事を、きちんと後世へ伝えていくこともまた、今に生きる私たちの使命なのだと強く思いました。

 

150年の年月はただ流れていたのではありません。生きることさえ大変な時代にあっても、子どもたちの未来への希望をつなぐために亀阜小学校を必死に守ってこられた先人たちの様々な想いが、今年の150周年という節目を私たちに迎えさせてくれているのだと思います。

以下は、高松空襲をまとめた本に書かれた、筧周三さんについての記述です。

 当時、周三さんはご両親と現在の英明高校の前に住んでいました。

 

 73日深夜、空襲警報解除になって眠りに落ちたところヘザアーと雨しぶきのように焼夷弾が落ちてくる。父・忠実さんは町内の出征留守家族を避難させる任務で家を飛び出しました。

取り残された母・ふじ江さんと周三さんはしっかり手をつないで逃げ出しました。八幡通りへと走り出る。通りは西へ行こうとする人々と東へ行こうとする人々が、あわてふためいてぶつかりあっていました。その中でふじ江さんは周三さんと手が離れてしまいました。「あっ」と叫んだふじ江さんは、自分に向かって伸ばされていた子どもの手を再び握ろうとしたものの、その間へ大勢の人が割り込んできた。周三さんはすぐに見えなくなりました。

ひとりになった周三さんは教科書を家に忘れたのを思い出し、教科書を焼いては先生に叱られると思い、走る大人たちに突き飛ばされながら家に向かいました。道をまがったとたんに周三さんは大きな音に頭を一撃されて倒れました。強烈な白光がはしりました。体をかすめて何本かの焼夷弾(しょういだん)が落ち、板塀や玄関の戸に激突したのです。顔に袖脂(油のゼリー)がべっとり飛びつき、ばりばりと燃えます。あわてて顔をおおうと手のひらにゼリーがくつついて燃える。泣き叫びながら地面を転げまわっているとき、また光がはしりました。火を噴く焼夷弾。もはや周三さんは燃え尽きようとするひと塊のボロ切れでした。

(「えほん高松空襲」 2016年改訂版 高松市平和を願う市民団体協議会 発行)

 

その後、見知らぬ男の人が周三さんを防火用水槽に押し込んでくれて、体の炎は消えましたが、体は焼けただれたまま。水槽をはい出した周三さんは炎の町を転げながら走りました。すりむいた膝は肉がはげて骨が見えていました。走っては転び、転んでは走り、やっと八幡宮までたどり着きました。絵馬堂の下のどぶ川に飛び込み、ひたすら朝をまちました。

朝、八幡宮の境内に向かって歩き出したものの、地面がおそろしい角度で傾いてきます。手洗い場近くまで来たとき精も魂も尽きはて、倒れこんでしまいました。

両方の手のひらは溶けて固まり、頭髪も眉も焼け失せている顔は大きく腫れあがっている瀕死の周三さんの横を一団の警防団員が通りかかりましたが、

 

「もう死ぬだろう放っておこう」。1人の言菓にみんながうなずいて去ってしまいます。

それを聞いていた女性がいました。378歳ぐらいでしょうか、素足の女の人です。

女性は1枚だけもっていた薄い夏ぶとんを地面に敷き、そこへ死にかかっている周三さんを寝かせます。手近にあったビール瓶に手洗い場の水をくみ、わずかに意識をとりもどした周三さんに飲ませます。枕元にしやがみこみ、唇が少し動けば1滴、2滴と水を注いでくれるのでした。

栗林公園で周三さんの消息を聞いた母のふじ江さんが姿を見せたのは、この後でした。

75日、周三さんは陶村の玉木病院へ運ばれ、ようやく手当てを受けられるようになりました。

                                         (「同上、えほん高松空襲」)

 

 それから約5ヵ月間の玉木病院での療養生活は、高松空襲に続く地獄の世界でした。診察のために医師が周三さんの手を少し持ち上げても、「痛い!」と絶叫する。医師が手を離してもまだ顔をゆがめ歯を食いしばっている。再び医師が手を持てば、絶叫はさらに激しくなる。入院当初、周三さんは夜も眠らずに、うめき続けました。

うめいたり、絶叫したり、激痛を訴える声は周三さん一人ではなく、どの病室の窓からも聞こえました。

 

つらい苦しい療養生活でしたが、命の助かった周三さんは、昭和2011月に玉木病院を退院し、疎開先の浅野小学校へ転校しました。

しかし、学校は周三さんにとって楽しいものではありませんでした。周三さんは、火傷のため顔全体がケロイドになっていて、右耳は焼失していましたし、両方の手も指がほとんど密着して棒のようになっていました。わずがに指としての機能が残っているのは小指だけ。だから、学校へ行っても誰も遊んでくれません。休み時間になれば、周三さんは一人、下駄箱や傘立ての上で、みんなが騒いで遊ぶのを黙ってみるほかはありませんでした。

 

高校を卒業しても、周三さんの就職は容易ではありませんでした。何度も転職しながら、鉄工所の工員として働きましたが、どんなに熱心に働いても、動かせる指は小指だけなのです。行員としての能力は、他の人よりどうしても低下してしまい、その部分は経済的にも精神的にも、周三さんの日常生活に重くののしかかってきます。

 

多くの人にとって、激しかった高松空襲は、遠く過ぎ去った幻影でしかありませんが、周三さん一家にとっては、幻影から背負わされた重量感のある負担を、これからも背負い続けていかなければななりませんでした。

 

               (高松市平和を願う市民団体2008年発刊「高松市民による戦争体験記(第2集)」より、

                周三さんのお母さん・ふじ江さんが書かれた「幻影の重量」から抜粋)

高松市こども未来館(たかまつミライエ)の5F「平和記念館」には、高松空襲のことが詳しく展示されています。痛ましい歴史を風化させないためにも、機会があれば是非足を運んでいただければと思います。

 

 

高松こども未来館ホームページ

「平和記念館」